《青年人网日语学习手册》第38課 日本語と国際交流
来源:优易学  2011-3-18 6:58:36   【优易学:中国教育考试门户网】   资料下载   外语书店

本课课文

  教えることは教わることだというが、日本語を外国人に教えてみると、彼らから日本語について教えられ考えさせられることが多い。

  「先生、日本人、『さようなら』といいませんね。」

  「へえ?」

  「good byeのことですよ。人と別れるとき、『さようなら』って言うのでしょう。国で習いました」

  「いや、『さようなら』って言いますよ。」

  「でも、学生たち、使いませんね。」

  「何て言いますか。」

  「バイバイ」

  なるほど。親しい者同士、特に若い人たちが「バイバイ」とか、「バイ」とかといって、手を振って別れることが多い。年輩の私などでも使うことがある。幼児に向かっては当然のように言う。一般の辞典の中には「バイバイbye bye(俗語)『もと、幼児語』さようなら」と解説するのもあるが、掲出していないものもある。日本語教育の教科書にも、普通は出ていない。いわゆる教室日本語と生活日本語の違う所なのである。

  「先生、『はい』と『ええ』と、どう違いますか。」

  「『はい』の方が丁寧な返事ですね。」

  と答えたものの、それだけかな、と気になった。それで考えてみて気がついた。これは案外大事な問題のようだ。

  まず、「はい」も「ええ」も肯定の返事に使える点では共通している。

  「お土産に果物を持って行ってあげようか。」

  「はい、持って来てください。」

  と言うときの「はい」は「ええ」とも言える。「はい」のほうが、少し丁寧。あるいは、かしこまった感じがあるだろう。

  「作文、もうできた」とか、「明日の会いに出ますね。」とか、「旅行、好きですか?」などと聞かれたときに「はい」「ええ」の両方が使える。ところが、

  「そこにいるのは誰?」「はい、三郎です」

  と言うときの「はい」を「ええ」と言うのは変である。

  「おはようございます」「はい、おはよう」

  「じゃあ、さようなら」「はい、お気をつけて」

  などの「はい」を「ええ」ということもできないだろう。

  これらから考えて、次のようなことがいえるのではないか思う。

  「はい」は、相手の言葉を受け止めたと言う意味の返事なのに対して、「ええ」は、相手の言葉を受け止め、さらにその内容を承認し肯定すると言う意味の返事である。「誰?」とか、「いつ?」とか、と聞かれるときに、その内容を承認する肯定するとかと言うことはあり得ない。だから、「はい」は使えるが、「ええ」は使えない。「おはよう」とか「さようなら」とか、挨拶されたときに、その内容を承認するとか肯定するとか考えること自体、変なものだ。だからこの場合にも「ええ」は使えない。

  さっきに「はい」も「ええ」もともに使える場合は、「肯定の返事」として「共通している」と言ったが、これは、「はい」が文脈上、自然に肯定の意味をも表すようになっている場合なのだ。

  ここまでが私の一応の結論だったのだが、しかしさらに考えてみると、「はい」にも「ええ」にも、返事ではなくて相槌を打つ用法があって、紛らわしい。承認してくれた返事、肯定の返事だと思ったものが、単なる相槌だったとしたら、たいへんな誤解を生むだろう。欧米人は、余り相槌を打たないで相手の言葉に聞き入る傾向がある。相槌を打つにしてもyesの類は使わないようだ。そのため、欧米人から、「日本人はよくyes yesと言うけれども、実は、肯定しているわけでも、賛成しているわけでもない。言うこととすることと違う」と非難されることがある。相槌の「はい」も「ええ」もyesに当たると思って気楽にyesを使うことが、国際的な不信感を生むもとになる。場面にもよるのだろうが、軽々しくyesを使ってはならないのだ。

  「先生、『夢を見る』は慣用句ですね」

  と言われてはっとした。慣用句の問題を、留学生を交えて教室で話し合っているときに、ある中国人留学生が聞いたのである。

  慣用句は「決まり文句」の一種だが、例えば,「羽を伸ばす」は、鳥がのびのびと羽を伸ばすと言うもとの意味から離れて、人が制約を脱してのびのびとする。気ままに振るまうという意味に使われる。このような比喩的な慣用句には、「腹が立つ」(怒る)「心を打つ」(感動する)「鼻にかける」(自慢の種にする)などがある。

  これらに対して、ごく普通の決まった言い回しの慣用句がある。「電報を打つ」「嫌気がさす」「気がつく」などである。これらは比喩的な慣用句とは違って、もとの意味を失っていないが、語と語の結び付きかたが決まっているものである。「夢を見る」もこのたぐいの慣用句だと言うのである。われわれ日本人にとって,[夢」は「見る」以外のものではない。「いやな夢を見た」「夢に母を見た」などと使う。「夢のない時代」「夢と知っていながら」などとも使うが、その「夢」自体、「見る」ものと思い込んでいる。余り当たり前で気がつかないでいたのである。

  「中国語では『夢ヲスル』(做梦)と言うんです。『夢を見る』と言わないので、面白いと思いました。」と、その学生が付け加えた。数カ国の留学生を聞くと、中国語式の言い方をする言語もあるし、英語の“dream”のように一語で表す言語もある。日本語式に「見る」を使う言語もある。いろいろだということを教えられた。

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责任编辑:虫虫

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